李禹煥 余白の芸術(10/10)
横浜美術館にて。(9/17〜12/23)
http://www.yma.city.yokohama.jp/exhibition/2005/special/03_leeufan/index.html

「観る」展示ではなく「いる」展示。
それぞれの作品と空間を共有して、自分がそこに「いる」ことを実感する。。。

李禹煥というと、リズム感のある構成がまず思い浮かびます。
ひとつの画面にひとつのパターンが繰り返し登場し、そのミニマム感が堪らなく面白い。
しかし、今回の横浜美術館での展示は回顧展ではなく近作・新作の発表。
またこれまでとは違う李禹煥の世界にたっぷりと浸れる興味深い空間でした。

平面作品。
これまでよく拝見したようなミニマムなリピートが展開されている作品は一切なく、あるのは大きな白の画面にふたつ、あるいはいくつかの大きなドットが描かれるのみの作品。
一点一点を観るよりも、それぞれの展示室の全体を俯瞰するように眺めているのが気持ちいい。
そこから作品に近付き、正面からだけでなく真横から観たり、ひとつのドットに接近してそこから別のドットの方向へ目をやったり、という具合にひたすら位置を確認。。。それに意味があるかどうかなんて考えず、ただ気の向くままにそうやって観ていくのが不思議と楽しい。

グレーのドットをじっくりと観ると、白の中に細かな粒子が混ざりあっていて、その質感もたいへん味わい深く思えました。それだけ眺めていても充分、時間を費やす価値があるほどに。

それぞれの空間を感じるように観て、作品がキャンバスに描かれているのがもどかしく思えて、いっそのこと壁に描いてくれれば・・・と思っていたら、後半にまさに壁に直にドットが入った展示室があって。
そこの空間はやはり格別だったような気がする、できることならひとりでしばらくそこに居たかった。

ロバート・ライマン、草間彌生。このあたりの「白」と見比べてみたい。

立体。
厚い鉄板。岩。細長い鉄の棒。木。
それぞれの作品は、こういった「重力の存在」を静かに発散させる物質どうしがまさに絶妙に配置され、それぞれが共鳴しているかのよう感じられます。
そしてそれらは、その配置を外側から眺めるよりも、作品の間、物質と物質との間に入り込む方が、よりその作品から伝わるメッセージをキャッチできるように思えました(多くの作品は残念ながらもちろん触ることは許されず、作品によっては近付いただけでスタッフが慌てるものもありましたが、そもそも100mの助走をつけてぶつかったとしてもむしろこっちが大怪我するような作品に対してなんでそこまで神経質になるのかな、とそのあたりの対応は非常に疑問でしたが)。

物質と物質の間に入ってみて、より強く、空間における自分の存在を感じた。
身体・物質的なことよりもむしろ、精神、心の存在、うまく表現できる気がしないけど、重力に支配されない部分の存在をいつもよりはっきり意識したような気がした。
そして、この風景、鉄板や岩の位置関係を、例えば重なる鉄板の間から、あるいは岩の内部の中心から眺めたらどんなふうに見えるだろうか...ということへと何故かそういうことへの好奇心が生まれて。

今年の初めの榎倉康二とは逆の方向。
榎倉の作品に触れたときはものすごく広大なイメージの広がりがあったけど、この李禹煥の立体からはどんどん収縮し、自らが小さくなる、精神がどんどん内側に入り込むことで見えてくる風景を感じることができたような気がする。

《感想リンク》
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/09/24194947.php
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/88d5bc78e45581db229f898eb38357d4
http://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/c0620a477684cabaec42b235050302a2
http://artslog.seesaa.net/article/7455936.html
http://richard-wong.cocolog-nifty.com/tron/2005/09/post_d4fe.html
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2005/09/post_deb7.html
http://athings.exblog.jp/2852781/
http://blog.goo.ne.jp/lysander/e/71a66e0cb424f08c71f8927ac6bc69cf

コメント

nophoto
Tak
2005年12月14日22:19

遅くなりましたが
やっと観て来ました。

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