特別企画 シンポジウム 越境するダンス(9/19)
2005年9月23日 アート新国立劇場中劇場にて。(9/19)
http://www.nntt.jac.go.jp/season/s277/s277.html
《出演者》
松岡正剛(コーディネーター)
天児牛大
梅若六郎(能楽師)
木佐貫邦子
高田みどり(打楽器奏者)
勅使川原三郎
毛利臣男(衣装デザイナー)
結論からいうと、すごく面白かったです!
まず、コーディネーターの松岡正剛氏の知識の豊かさに驚きました。
今回集まった表現者はダンサーあるいはそのシーンに近い位置で活動する人で、いちおうまとまっているようで実際は実に幅広く、同じダンサーでもそれぞれのパフォーマンスを捕らえたビデオを観るかぎり凄まじく幅広く、ひとえにダンスといってもまったく違う表現方法なのですが、松岡氏はそれぞれをきちんと押さえたうえでひとりひとりのパフォーマーの本質的な共通点を見い出し、それらを繋げて話を展開させていっていて。
こういう人は立花隆くらいしかいないと思っていたので、松岡氏の存在自体が衝撃でした。
そして、それぞれの表現者。
僕はコンテンポラリーダンスは観たことはなく、せいぜいCDショップのアバンギャルドのコーナーで流れていたミニマムダンスの映像を観たことくらいしか体験がなかったのですが、まずそれぞれのビデオを観てそれだけでものすごく「生で観たい!」と思ってしまったし、それぞれの話の内容にも「!」という部分にあふれていて、とにかく刺激的で。
なかでも勅使川原三郎と能楽師の梅若六郎とのやりとりが興味深く、「引いていく芸」である能に対する勅使川原の尽きない好奇心がすごく伝わってくるような内容で。
それにしても梅若六郎の存在感は尋常じゃなかったです。
前衛の舞踏家、天児牛大の存在感も強烈で、鋭い視点も印象的。
とにかく話を聞いていて感じたのは、どの表現者も表現する上での「確信レベル」がものすごく高いな、ということ。
ひとつひとつの言葉の重みが違うような気がしたし、またその重さの向こうにはここまで表現してきた年月、一流の表現者として第一線を張ってきた時間こそがバックボーンとして存在することも強烈に感じられました。
そして確信レベルが高いがゆえに、辿り着く疑問、というよりも表現する上での対峙すべき対象が「重力」という実に根本的でかつ哲学的なものだというのも興味深く(他にも感覚的なもの多数)、納得。こういう疑問を持つことってクレイジーだと思いますが(言葉の下品さに反して賞賛の意味)、それはやはり「突き詰めて」表現してきたことの証ではないかと。
・・・・・いやむしろ、これは少々勘ぐり過ぎかも知れませんが、そういう疑問を持つことでもっと現実的な事象から逃れようとしているのかもしれない、とも思うのです。
特にこういった前衛の表現者たちはできることなら、重力、自己、時間など、すべてのものから解放されて表現したいと思うだろうし、しかし実際にはやはり「我を忘れて」という感覚はなかなかコントロールして導き出せるものではないはずで。。。
しかし、そうやってそういう疑問を持つことで自分を追い詰めているのかも。。。
こういう内面の疑問と合わせて、外へと向かう疑問や要求もかなり興味深かったです。
「『分からない』から観ないのではなく、とにかく何も考えずに能を観てほしい」と訴える梅若六郎。
パスポートという例えを使って、「コンテンポラリー」という言葉の不必要性を語る勅使川原三郎。
自分が表現していることに強い自負があるからこそ、そういった強い欲求が出てきているのだろうな、と。
このシンポジウムを拝聴して、単純に観たいものが増えてしまった自分の節操のない好奇心に半ば呆れつつ、やはり自分のそういうところが案外生きる上での根幹を支えているのかも、とも思ったりします。
《感想リンク》
http://blog.livedoor.jp/luxa/archives/50087180.html
http://lab.lolipop.jp/ppblog/index.php?mode=show&date=20050919
http://cleareyed.exblog.jp/
http://artslog.seesaa.net/article/7190699.html
http://blog.livedoor.jp/miho_piano/archives/50155520.html
http://www.nntt.jac.go.jp/season/s277/s277.html
《出演者》
松岡正剛(コーディネーター)
天児牛大
梅若六郎(能楽師)
木佐貫邦子
高田みどり(打楽器奏者)
勅使川原三郎
毛利臣男(衣装デザイナー)
結論からいうと、すごく面白かったです!
まず、コーディネーターの松岡正剛氏の知識の豊かさに驚きました。
今回集まった表現者はダンサーあるいはそのシーンに近い位置で活動する人で、いちおうまとまっているようで実際は実に幅広く、同じダンサーでもそれぞれのパフォーマンスを捕らえたビデオを観るかぎり凄まじく幅広く、ひとえにダンスといってもまったく違う表現方法なのですが、松岡氏はそれぞれをきちんと押さえたうえでひとりひとりのパフォーマーの本質的な共通点を見い出し、それらを繋げて話を展開させていっていて。
こういう人は立花隆くらいしかいないと思っていたので、松岡氏の存在自体が衝撃でした。
そして、それぞれの表現者。
僕はコンテンポラリーダンスは観たことはなく、せいぜいCDショップのアバンギャルドのコーナーで流れていたミニマムダンスの映像を観たことくらいしか体験がなかったのですが、まずそれぞれのビデオを観てそれだけでものすごく「生で観たい!」と思ってしまったし、それぞれの話の内容にも「!」という部分にあふれていて、とにかく刺激的で。
なかでも勅使川原三郎と能楽師の梅若六郎とのやりとりが興味深く、「引いていく芸」である能に対する勅使川原の尽きない好奇心がすごく伝わってくるような内容で。
それにしても梅若六郎の存在感は尋常じゃなかったです。
前衛の舞踏家、天児牛大の存在感も強烈で、鋭い視点も印象的。
とにかく話を聞いていて感じたのは、どの表現者も表現する上での「確信レベル」がものすごく高いな、ということ。
ひとつひとつの言葉の重みが違うような気がしたし、またその重さの向こうにはここまで表現してきた年月、一流の表現者として第一線を張ってきた時間こそがバックボーンとして存在することも強烈に感じられました。
そして確信レベルが高いがゆえに、辿り着く疑問、というよりも表現する上での対峙すべき対象が「重力」という実に根本的でかつ哲学的なものだというのも興味深く(他にも感覚的なもの多数)、納得。こういう疑問を持つことってクレイジーだと思いますが(言葉の下品さに反して賞賛の意味)、それはやはり「突き詰めて」表現してきたことの証ではないかと。
・・・・・いやむしろ、これは少々勘ぐり過ぎかも知れませんが、そういう疑問を持つことでもっと現実的な事象から逃れようとしているのかもしれない、とも思うのです。
特にこういった前衛の表現者たちはできることなら、重力、自己、時間など、すべてのものから解放されて表現したいと思うだろうし、しかし実際にはやはり「我を忘れて」という感覚はなかなかコントロールして導き出せるものではないはずで。。。
しかし、そうやってそういう疑問を持つことで自分を追い詰めているのかも。。。
こういう内面の疑問と合わせて、外へと向かう疑問や要求もかなり興味深かったです。
「『分からない』から観ないのではなく、とにかく何も考えずに能を観てほしい」と訴える梅若六郎。
パスポートという例えを使って、「コンテンポラリー」という言葉の不必要性を語る勅使川原三郎。
自分が表現していることに強い自負があるからこそ、そういった強い欲求が出てきているのだろうな、と。
このシンポジウムを拝聴して、単純に観たいものが増えてしまった自分の節操のない好奇心に半ば呆れつつ、やはり自分のそういうところが案外生きる上での根幹を支えているのかも、とも思ったりします。
《感想リンク》
http://blog.livedoor.jp/luxa/archives/50087180.html
http://lab.lolipop.jp/ppblog/index.php?mode=show&date=20050919
http://cleareyed.exblog.jp/
http://artslog.seesaa.net/article/7190699.html
http://blog.livedoor.jp/miho_piano/archives/50155520.html
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