横浜美術館にて。(1/5〜3/21)
http://www.yma.city.yokohama.jp/kikaku/duchamp/index.html

・・・ちょっと、ね。
なんか、こう、すごく空しいなぁ、って。

初期のキュビズム風(というよりキュビズムそのもの)の作品の完成度、説得力に圧倒された。
「チェスプレーヤーの肖像」も「階段を下りる裸体」「花嫁」も、とにかくかっこいい。ピカソやブラックのキュビズム作品を並べても、当然遜色などあろうはずがないくらいに。
そして、後に「レディ・メイド」を世に出してそれが受け入れられた(賛否はともかく)のも、これらの作品があってこそなのだろうな、と納得。。。

「レディ・メイド」、作品そのものよりもその「影」を味わう感じ。実際、そういう意図で展示されていた。「レディ・メイドの影」というタイトルの写真はすごく魅力的に見えた。
それ以降は、「痕跡」展や「フルクサス」展での感想に通ずるような印象の展示が続いてた。

 
この「デュシャン展」を観終わって感じた2つのこと。

まず、要は「やったもん勝ち!」ということかと。
ばっさり言ってしまうと、寝かせた便器を指さして、
「これ、何に見える?」
「うーん、泉(笑)」
「ちょっと待てコラ(笑)」
のようなただのユーモアゲームみたいなのを「皮肉」を込めて(絶対そうだと思う)おおっぴら「アート」としたのがデュシャンが最初だった、というだけのことじゃないの?
もっとも、「階段を降りる裸体」を描いたデュシャンがやったからこそセンセーショナルになったんだろうけど。

これを無視できなかった、追随してしまったアーティストが、正直、愚かに思えてしまう。
ここから生まれるインスピレーションも確かにあることは認めるが、ここで展示されていた他の作家の作品は概ね稚拙に思えた。
そうじゃなく感じたのは、デュシャンの皮肉に「皮肉」で応戦したと思えた作品。実際のところはどうか分からないが、「泉」を金ピカにして「ブッダ」としたのはなかなかだと思う。

そしてもうひとつ。
初期の油絵を観て思ったのは、、デュシャンはもっと「描き続けたかった」のでは、ということ。
「泉」を世に送りだしてしまった時点で、画家としてのデュシャンは「終わって」しまったような気がする。
晩年の銅版画作品を観て、その弱々しさに悲しくて涙が出そうになった。。。
描きたいのに描かなくなって、おかげで描きたくても描けなくなったデュシャン。そんなことを想像してしまった。

 
例えていうならデュシャンは裸の王様にでてくる仕立て屋で、「泉」を絶賛する人たちは王様を取り囲む観衆だ。
おそらくデュシャンは王様の愚かさが分かっていたはず。

デュシャンにはずっと描き続けてほしかった、と「階段を降りる裸体 No.2」のポストカードを眺めながら思う。

《感想リンク》
http://store15nov.blogzine.jp/diary/2005/02/post_14.html
http://yaplog.jp/gogoluckykd/archive/44
http://junkieb.exblog.jp/635353
http://herojazz.seesaa.net/article/1867200.html
http://tsure2kusa.exblog.jp/1631158
http://s-tamako.cocolog-nifty.com/mamart/2005/02/post_2.html
http://jiyu-runner.cocolog-nifty.com/tannsihin/2005/01/post_27.html
http://blog.drecom.jp/purple_shikiko/archive/114
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20050129#p1
http://blog.goo.ne.jp/lysander/e/849dd2889cfb20d3d6408215e0f7c864
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=115
http://blog.so-net.ne.jp/mckeee/2005-02-13

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索